2010年10月25日

今日ですべてが報われる

2期のスタートということで、原点めいた話をしようと思う。

今でこそ「否定からのそれでも」だとか「連帯への憧憬」だとか、妙にきな臭いテーマで自分を縛って何事かをまき散らしている僕だって内省的な音楽に傾倒した時期もあるし、自意識をこじらせていた時期もあるごくごく普通の人間だ。自分が偉いな、と思うのはそこを「黒歴史」という言葉で蓋をするのではなく、一歩ひいた感覚で今もそれを楽しめるという点だ。思想と切り離したところでも娯楽を消費できるというか。限度はあるけど。まあそれはまた別の話か。

ティーンの頃からエターナルラヴが嫌いだった、永遠なんてないと思っていた、というのは件のエントリでも話したことだけれども、そんなモヤモヤを見事に打ち抜いてくれたのが『図鑑』に収録されていた「マーチ」だった。



「今は昨日じゃなくて 明日だということ 信じるだけなのさ」

このそっけないライン。今は過ぎ去るものではなく、眼前に迫ってくるものであるという感覚。これがもう長らく自分の中での「答え」として機能している。たぶん、死ぬまで変わらない。そう、死ぬのだ。「今」の連続は必ずや断ち切られる。いうなれば過ぎ去るものとして「今」が価値を帯びていくのは僕らが死んだ後ということだ。「思い出」は僕から切り離されて初めて輝く。僕自身に対して「思い出」なんてものは奇麗に機能しない。だからこそ、明確に果てがある、それでいて地続きなものとして「今」をとらえるのだ。

様々な音楽や作品を享受していく中で本当に膨大な量の音を浴びてきたけれども、発表から10年、結局根っこにあるものはずっとこれだった。もしかすると、海外の音楽ばかりに接近したのはこれが原因なのかもしれない。いつまでたっても更新されない共依存と内向きの世界が嫌でしょうがなかった。

ただ、今にして思えばそれすらも自分の中では観念でしかなかった。だからこそ「今日は昨日みたい? 明日は今日みたい? 大丈夫 大丈夫 楽しかったら大正解」に感動してコレとかコレとか書いちゃうわけで。日常回帰と青春の再構築。

僕が勝手に友人だと思っている青年の「10代なんてなかった」という発言に僕は最大級の共感を覚えているが、そういう意味では「愚かな10代」というものは僕にも実はあったのかもしれない。もっとまっすぐなベクトルでこじらせたかったが。ラウンドワン的10代とでもいうか。うわ伝わらねえ。


今、という瞬間にいきなり飛びこんでいくのは難しい。とすれば、恐らくは単位としては「今日」が適切なのだろうか。一つの答えがこの曲かもしれない。



現代だからこそ日常への回帰、連帯への憧憬として機能する。こういう音楽が必要なんじゃないのか。秋がなくなりつつある日々の中でそんなことを思う機会が増えてきた。

author:みかんぱ



posted by 編集部 at 23:30| Comment(0) | あの1枚、この1節 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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