2010年10月23日

片想いとしての「好きだ」廃止宣言

好きだ、好きだ、

 人でもモノでもなんでもすぐ好きになる。好きになるかどうかの判断は一瞬で、きっかけは本当にものすごくどうでもいい部分で、決定したらそれは絶対で、その強度のまま好きが半直線の軌道、爆発的に進むのがいつもの作法だ。人だったらたとえば、顔立ち、しぐさ、話し方のくせ。まつ毛が長くて眠そうとか、聞き返すときに目を見開いて「ん?」と言うとか、舌足らずな発音なのに声は低いとかそういう。そこにひっかかって、いいな、と思ったらもう好きで、性格やいろんな嫌な部分や悪い部分はそのあとに知る、でもそれも全部引き受けていく。全肯定や崇拝ではない、こういうところもあるよな、と思うだけ、たまにあまりにひどいと思えば手出し口出しする。それによって好きであることが揺らいだりはしない。

好きだ、好きだ、ただそれだけだ、それだけあれば

 好きな対象から好かれたいかと言ったらべつにそうでもない。自分がそれを好きだということだけでだいたいの場合満足する。好きなものと自分はつながっていない。高校時代まで数学が好きで好きでしかたなく、計算問題ばかり飽かず繰り返したものの成績はいっこうに揮わない、数学のカミサマに愛されることはないまま大学では線形代数学で派手に挫折、以来数学とは決別した。好みの役者の写真やDVDを集めて眺めてはニヤニヤ過ごしているが別にその人の実際を知りたいとか見たいとか思うわけではない。憧れの異性は毎回狩猟民族よろしく猛然と追うだけであって結局付き合いたいか・性交渉したいかときかれれば答えはノーだ。見ているだけで触れられない、一方的に好きを撃ちこみ続けてなんの反響もない、そのこと自体が私には実はものすごく心地いい。

 好きだ、好きだ、ただそれだけだ、それだけあれば、それは嘘

 好きはある日突然終焉を迎える。文字通り幕切れ、刃物でぶった切ったように、猛進する半直線がいきなり終点をもって線分になる。初めと変わらない強度の好きがいきなりそこでその強さをもって終了する。ゆるやかに消えるとかだんだん好意が薄らいでいくとか、そういう経験をしたことはない。人でもモノでもなんでもそうで、私はかれらに厳粛で冷徹な決別を一方的に言い渡し、アドレス帳から連絡先を消したり燃えないごみの袋につっこんだりする。
 最初から最後まで圧倒的に一方通行、どうしてこんな風に終わらせなければならない?だって見ているだけで触れられないのがいいって自分で言ったじゃないか、とそういうこと、結局自業自得だったとようやく最近気づく。好きなものとつながらないことを望んだのはほかならぬこの私だ。本当はつながりたい、好きなものとの断絶をこえたい、好きなものに実際に手で触れたい、愛してる、殴らせろ。

好きだ、好きだ、そしてそこから?

 好きなものにちゃんと向き合い、好きなものとコミュニケートし、なんらかの相互作用をつくること。ギブアンドテイクとかそういう話ではない。好きだ、とただ片想いするだけでは憂鬱な思春期から永遠に抜け出せない。好きだという気持ちを、対象が受け取る、そこからつながりを得ること・断絶をこえること、これを私はいま欲しいと思う。好きだという気持ちのその先を見たい。好きな対象は全くこっちに興味を示さないかもしれないし、ものすごく嫌われるかもしれないし、憧れが幻想であって実際の姿はこうだと突きつけられるかもしれない、それは絶対一方的な好きをぶつけるときより苦しいだろう。でもそこを経てはじめて、なにかを好きであることの本当の意味がわかってくるんだろうと思う。その予感に賭けたい、ここから先はそういうやり方で行く、とここに勝手に宣言して、私の言いたい事は以上です。

author:モリシ


特集「好きで断絶を越えていく」

posted by 編集部 at 23:23| Comment(0) | 特集2010.10 | このブログの読者になる | 更新情報をチェックする
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